第1章 1〜3
彼女はペンを置き、少しだけ考えてから口を開く。
「しかし原典は失われやすいものです」
彼の視線が止まる。
「燃えれば終わりだ」
「いいえ」
声は低いが震えていない。
「誰かが書き写していれば、終わりません」
彼はわずかに笑う。その笑みには柔らかさはなく、優越だけがあった。
「誤った形で残るなら、残らない方がましだ」
──誤りは許せない。
──世界は正確であるべきだ。
胸の奥で繰り返される信念。
彼女は首を振らない。ただ静かに答える。
「正確なまま燃えてなくなるよりは、少し歪んでも、生き残る方がいいと思います」
その言葉が、胸の奥にわずかな引っかかりを残した。それは反論ではなく、名づけがたい違和感だった。
「中途半端な知は愚者を増やす」
「触れられない知は、何も増やしません」
沈黙が落ちる。遠くでページをめくる音だけが続く。
彼は初めて正面から彼女を見る。
派手さはない。特別な才気も感じない。だが視線を逸らさない。
「あなたは学者ではない」
「はい」
「ならば知の価値はわからない」
「作れませんから」
小さく微笑む。
「残すだけです」
自嘲でも卑下でもない。ただ事実としての言葉。
一瞬、彼は言葉を失う。
──作れない者の論理だ。
そう片付ける。
「英傑の仕事ではないな」
踵を返す。その背に向けて声が届く。
「英傑でなくてもできますから」
足が止まりかける。だが止めない。
廊下へ出ると、午後の光が強く差し込んでいた。胸の奥に残る、微かなざらつき。
──名も残らぬ仕事。
それが何だというのだ。
自分は歴史を動かす。自分は特別だ。
そう思いながら歩く。
だが、羊皮紙を擦る規則的な音と、蝋燭の匂い、そしてあの静かな声だけが、不思議なほど消えずに残り続けていた。