第5章 対峙と邂逅
それから八重は出家し、尼寺で修行をした。
寺で学ぶ経典も作法も戒律もすんなり覚えることができた。
八重にとっては苦行も苦行ではなかった。
坐禅による体の痛みも、断食による空腹も、作務による疲労も八重の精神を削るものではなかった。
読経も写経も心が穏やかになるし、沈黙行ではむしろ独りではないと感じたほどだった。
同じく修行をする者の中には、「彼女はもう解脱しているだろう」と言う者もいたし、「揺らがなすぎて逆に恐ろしい」と言う者もいた。
そんな中、唯一八重の心が揺らぐ瞬間がある。
それは誰かの涙を見ること。
ある夜、どこからか嗚咽が聞こえた。
きっと同じく修行をしている誰かだろう。
修行が辛いのだろうか。
それとも他に悲しいことがあったのか。
定かではないがそれに気づいた瞬間に八重の心は震えた。
法要で経を読み上げている最中。
誰かのすすり泣きが背中に染み込む。
人の感情には温度がこもる。
八重が失おうとしている人の温度。
それを自覚させられるのが唯一の苦行だった。
しかし、その唯一の苦行にこそ八重の救いがあった。
人の温度に触れればこそ、八重自らの人としての心を温められる。
人を救えば八重は人間の温度を忘れない。
人間でありたいと思わせてくれる。
いつか海に還らなければいけないかもしれない。
ただ、今、この瞬間だけ、人間であると感じられる。
だから、苦しくても人の涙に寄り添いたい。
そして、可能であるならば、その憂いを晴らしたい。
八重はそう決していった。