第8章 『 余裕がなくなる音』
別日。
体育館倉庫の中。
片付けを頼まれて入ったはずなのに、咲は棚の前で一人立ち止まっていた。
(……名前で呼ばれたし)
胸の奥がまだ少し落ち着かない。
「……りんと……」
小さく呟いてみる。
言った瞬間、顔が一気に熱くなる。
「や、やっぱ凛人先輩……」
そのとき。
「……はぁ?」
低い声が、すぐ後ろから聞こえた。
「っ!?」
振り向くと、倉庫の入口に腕を組んだ凛人が立っている。
「な、な、凛人先輩! お、お疲れさまでしたー!」
慌てて出口へ向かおうとするが、凛人が一歩動いてさりげなく道を塞いだ。
「……今の」
少しだけ目を細める。
「ちゃんと聞こえたけど」
咲の顔が一瞬で真っ赤になる。
「ち、違うんです! あの、えっと、その……!」
しどろもどろになる咲を見て、凛人は小さく息を吐いた。
そして、少しかがんで目線を合わせる。
「……もう一回言ったら、出してあげる」
「えっ」
「……お願い。」
低く静かな声。
咲は視線を落とし、ぎゅっと制服の裾を握る。
「……む、無理です」
「じゃあ出さない」
「ず、ずるいです……」
少しだけ間が空く。
心臓の音がうるさいくらい響く中、咲は小さく息を吸った。
「……りん……と…くん」
かすれるくらい小さな声。
それでも、ちゃんと届いた。
凛人は一瞬だけ言葉を失ってから、ふっと視線を外す。
(……やば)
口元を手で軽く押さえ、小さく息を吐く。
「……よし」
一歩だけ横にずれて、出口を空ける。
「合格」
咲は顔を真っ赤にしたまま、小さく「失礼します……!」と言って急いで倉庫を出ていった。
閉まりかけた扉の向こうへ消える背中を見送りながら、凛人は天井を見上げる。
「……余裕なくなるだろ、そりゃ」