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『はつこい』

第8章 『 余裕がなくなる音』


ある日のこと

休憩時間の体育館は、いつもより少しだけ賑やかだった。

給水用のボトルを並べていた咲の周りに、何人かの部員が自然と集まる。

「岩田妹、タオルもうある?」
「岩田妹〜、次の練習メニュー、監督なんて言ってた?」

「あります!今出しますね」
「シュート練です!」

「助かる〜」

笑いながらテキパキ動く咲に、部員たちも軽く冗談を返す。
その様子を、少し離れた場所から凛人は黙って見ていた。

――近い。

距離も。
呼び方も。

「岩田妹」

何度も聞こえるその言葉に、理由のわからない小さな苛立ちが胸の奥に溜まっていく。

別に、おかしなことじゃない。
昔からそう呼ばれているし、マネージャーとして話すのも普通のことだ。

それでも、なぜか面白くなかった。

気づけば、もう歩き出していた。

「……咲。」

口にした瞬間、自分でも一瞬遅れて気づく。

咲がぱっと顔を上げた。
少し驚いた表情。

周りの部員も「ん?」と一瞬だけ静かになる。

凛人は何事もなかったように言った。

「次、ボール出し頼む。」

「は、はい!」

少しだけ慌てた様子でボールカゴを持ち上げ、咲はコートの方へ向かっていく。

その背中を見送った直後、横から肘で軽く小突かれた。

「……おい、凛人。」

振り向くと、蓮がニヤニヤしている。

「部員に嫉妬は末期だぞ。」

「してねぇ。」

即答すると、桜が肩をすくめた。

「いや、『岩田妹』って呼ばれるたび顔怖かったけど?」

「……うるせぇ。」

二人は顔を見合わせて笑う。

「まぁでもさ」
「やっと名前呼んだな」

その言葉に、凛人は何も返さず、視線だけをコートへ戻した。

ボールを渡しながら動き回る咲の姿が、さっきより少しだけ遠く感じる。

――別に、深い意味はない。

ただ、あの呼び方が、少し嫌だっただけだ。

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