第3章 交錯する想い
目の前の男は気絶したのか、意識があるのか。
そんなことは、もはやどうでも良い。
今はただ、この男の言葉を、声を、これ以上ナマエに聞かせたくなかった。
空気に染みついた執着の残滓ごと、ここから引き剥がしてしまいたかった。
そして、もう一度足を上げた時。
「……もう、いいよ」
ナマエの声が、鼓膜の奥に静かに沈み込む。
張り詰めていた糸に、そっと指を掛けられたような感覚。
怒りで熱を持っていた頭が、わずかに冷えていくのが分かった。
「もう気を失ってるから。大丈夫」
背後からブレザーの裾を引かれる。
その力は弱く、簡単に振り払える程度のものだ。
それでも、その小さな抵抗は確かに俺の動きを止めた。
「……貧血は」
「それも大丈夫。ご飯、食べたから」
何とか、話題を変えようとして絞り出した言葉だった。
ナマエは短く答えたきり、俯いたまま、床に項垂れる男を見つめている。
その視線に怒りはなかった。恐怖とも、憎しみとも違う。
もう終わった出来事を、静かに確認しているだけのような、慈愛の籠った眼差しだった。
その理由が分からず、俺は視線を逸らす。
ナマエが横になっていたベッド。
そこに置かれた配膳トレーの上には、ほとんど手をつけられていない給食が残っていた。
(……全然、食ってねぇじゃねーか)
喉まで出かかった言葉を、無理やり飲み込む。
今それを言えば、また同じことの繰り返しになる気がした。
「……帰るぞ」
できるだけ、普段と変わらない声で告げる。
「……うん」
小さく頷いたナマエは、ようやく男から視線を切り、俺の方へ向き直った。
その顔色はまだ優れないが、少なくとも、さっきまでの震えはない。
ナマエの荷物を持ち、男に背を向けて保健室の扉へと歩き出すと、その一歩後ろをナマエの足音がついてくる。
扉を開けると廊下の空気が流れ込んできた。
冷たくて、静かで、さっきまでの異常が嘘のように感じる。
その空気に引かれるように、俺たちは言葉を交わさないまま、保健室を後にした。