第1章 旅立ち
私に触れるこの大きな手が、さっきまで母を傷つけていた手だと気づいた途端、全身が凍りつく。
指先から背中まで、じわじわと震えが広がっていった。
「可愛そうに。怯えているね」
「っ、……ぁ、」
「大丈夫だよ。君が頷いてくれれば、彼女は特別に助けてあげよう。まあ、その後は私と一緒に来てもらうけどね」
「…ど、こに……?」
「それは着いてからのお楽しみ。君と歳が近い子も居るんだ。きっと仲良くなれる」
にこり、と作られたような笑顔。
そのまま伸ばされた指が、震える私の唇に触れた。
なぞるように、確かめるように、ゆっくりと滑っていく。
逃げたくても、声を出したくても、身体は言うことをきかなかった。
「……だ、め…」
「あれ、まだ動けるんだ」
ずる、ずる、と濡れた布が地面を引き摺る音が聞こえる。
嫌でも分かってしまう。
それが、母の音だということを。
胸がぎゅっと締め付けられて、「来ちゃダメ」と叫びたくなった。
「、聞いて……っ」
でも、その声を聞き逃してはいけない気がして、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
すぐ近くで、チッ、と小さく舌打ちが落ちる。
「それ以上喋ると殺すよ」
「……、"約束"は、信じられる人とだけ…」
「聞こえなかったのかな。猿は耳も遠いようだね」
夏油さんは私から手を離した。
その代わり、ゆっくりと母の方へ顔だけを向ける。
「貴女は、…凄い子。とても強くて、優しい子……だから、」
雨に濡れた地面を必死に這いながら、こちらへ伸ばされる母の手。
私は振り返ることも出来ず、ただ目だけを動かして、その姿を見つめた。
滲む視界の中でも、母の顔だけははっきりと焼き付いていく。
「────、」
あの時、母が何を言ったのか。
何かを言ったのかさえ、私には分からない。
雨音に紛れて───あるいは、私自身が聞くことを拒んだのかもしれなかった。