第1章 旅立ち
私は目の前で起きていることが理解できないまま、母を見上げる。
その頭を片手で掴み、持ち上げている夏油さんの姿が視界に入って、はっとして振り返った。
「や、やめて…、やめてくださ、」
目の縁に涙が溜まり、視界が滲む。
懇願するように夏油さんの服に縋りつき、ぎゅうう、と必死に布を握り締めた。
そんな私を見下ろして、夏油さんは小さく笑う。
「ふふ、…いいこと思いついた」
そう呟き、母の頭を掴む手に力を込める。
「あ゛ぁ゛ッ…!!!!」
耳を裂くような、母の苦しげな声。
ミシミシ、と嫌な音がして、胸の奥が凍りつく。
「も、…っや、め……しんじゃ、おかあさん、しんじゃう……!」
「そうだね」
「なんで、こんな、……やめて、なんでも、何でもするから…!!」
「……ふふ、本当かい?」
「何でもする」。
その言葉を待っていたかのように、夏油さんの表情が緩む。
母の頭を掴む力が弱まったのか、母の口から「はあっ……、」と、必死に息を吸う音が漏れた。
生きてる。
そう思った瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
私は涙で濡れた顔のまま夏油さんを見上げて、震える声で、もう一度だけ言った。
「なんでも、します、」
私がそう言うと、夏油さんは満足そうに笑って、母の身体を乱暴に遠くへ投げ飛ばした。
湿った地面に叩きつけられる鈍い音がして、私は反射的にそちらを見る。
「…!!おかあさ…」
「こら、逃げないで」
「っ…、」
名前を呼ぼうと一歩踏み出した瞬間、進路を塞ぐように大きな影が立ち塞がる。
逃げ場を失った私は、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。
びしゃびしゃに濡れた私の頭上に、再び傘が差し出される。
視界が暗くなって、すぐ近くまで夏油さんの顔が迫ってきた。
「私のために何でもする、って約束。してくれる?」
「…っ、」
「こらこら、返事はキチンとしなきゃダメだろう?お母さんに教えてもらわなかったかな?」
「……ぁ、ぅ」
喉がひくりと鳴るだけで、言葉が出てこない。
ぱくぱくと開いて閉じる口元を見下ろされて、次の瞬間、顎に大きな手が添えられた。