第2章 わるいこ
「……伏黒くん?」
慌てて身体を支え、肩を揺らしながら名前を呼ぶ。
けれど伏黒くんは小さく息をするだけで、目を覚ます気配がない。
「……寝ちゃった…?」
そんなはずがない。
さっきまであれほど気を張っていた伏黒くんが、呪力の残り香が漂うこの場で無防備に眠るなんて。
──────だとしたら。
背筋を嫌な予感がなぞった。
「……さっきの呪霊は、餌だったんだ」
それ以外、考えられなかった。
理解に至った瞬間、周囲に散っていた微弱な呪力がザワリとと動く。
霧のように漂っていたそれらが一箇所へ引き寄せられ、ゆっくりと形を成していく。
『イタイノイタイノ、トンデケ〜』
現れたのは歪な呪霊の影。
その手には、注射器のようなものが握られていた。
透明な筒の中に映るのは——さっきまで隣で眠っていた伏黒くん。
一定条件下でのみ発生する呪霊。
呪術師の存在を“理解している”呪霊。
低級術師を誘い出し、先に現れた呪霊が祓われた時点で、術式の勝敗が決まる。
最初から、罠だった。
「……伏黒くんを返してくれなきゃ、痛くするよ」
指先に呪力を巡らせる。
声は低く、静かに。けれど一切の迷いは込めなかった。
逃がす気なんて、最初から更々ない。
『クスクスクスクス』
呪霊は壊れた玩具みたいな笑い声を漏らした。
その細長い腕で、例の筒を私に見せつけるように掲げる。透明な内側に映る伏黒くんの姿が、わずかに揺れた。
そして次の瞬間。
呪霊はそれを高く持ち上げ——落とす素振りを見せる。
時間が、止まったように感じた。
「わるいこ、」
その一言と同時に、世界が切り替わる。
足元から、手首から、服の縫い目という縫い目がほどけ、無数の糸が弾けるように宙へ走った。
躊躇はない。感情もない。ただ、正確に祓うことだけに集中した。
糸は呪霊へ一直線に伸び、首、腕、胴、脚へ交錯し、絡み合い、次の瞬間には切断線へと変わる。
─────断末魔すら、許さない。
呪霊の身体は悲鳴を上げる間もなく寸分違わず分断され、ばらばらに崩れ落ちる。
落とされるはずだった筒だけが宙で静止し、糸に絡め取られて私の元へ引き寄せられ、遅れて呪力が霧散する。
「……バイバイ」
その言葉と同時に、この空間は静寂を取り戻した。