第9章 愛する覚悟
藤沼さんとの最後の会話を終え、名残惜しさを引きずりながら教室を去っていく彼女の背中を見送った。
上履きの音が遠ざかると、ついに、この場所には私一人だけが取り残された。
少し前まで喧騒に満ちていた空間が嘘のように、静寂に飲み込まれていく。
(眩し……)
沈み始めた春の夕日に焼かれて、目が細まる。
静かになればなるほど、奥底に沈めていた記憶が浮き上がった。
前の学校で"あの人"に日常を壊されるような事件がなければ、今の私はここにいない。
藤沼さんと出会うこともなければ、恵くんと同じ高専に通うことも──…そして、恵くんと互いの想いを確認し合うことだって、きっと一生なかったはずだ。
(………少しだけ感謝してるなんて、おかしいのかな)
あの時、息が詰まるほど苦しかったのは紛れもない事実。
それでも、あの事件をきっかけに動いた感情や、得られた縁は数えきれないほどあった。
そもそも、彼は私に狂わされた被害者でもあったのだ。
だとしたら、私が彼を一方的に恨むことなんて、あってはいけない気がする。
(……いま、何処で何してるんだろう)
願わくば、私たちと同じようにどこかで卒業の日を迎え、新しい日常を元気に歩んでいてくれたら──そんな呪術師としては甘すぎる願いが、胸の内で小さく疼いた。
「ナマエ」
窓の縁に腰掛けて手元を遊ばせていると、ふと名前を呼ばれる。
顔を上げて確認すると、恵くんが教室の入口で私を待っていた。
「……下で、五条さんと伊地知さんが待ってる」
「…そっか」
ここを出たら、私たちは死と隣合わせの生活が当たり前になる。
私は、それでいい。
昔からそうして生きていたから、今更抵抗なんてない。………でも。
(…恵くんは、来てほしくないなぁ)
そう強く願えば願うほど、私の足は重い鉛へと変わり、教室の床に縫い付けられたように動かなくなった。
「………オイ、」
痺れを切らしたのか、ついに教室内まで足を進めた恵くんに頭を小突かれる。
落ちていた視線を無理やり引き上げられると、その真っ直ぐな瞳と至近距離で絡み合う。
「…ごめん、行こっか」
私は逃げるように視線を逸らした後、自席にある鞄を取りに行くため足を踏み出した。