第21章 隣と桜
══閑話══
人は、欠けたものの形を覚えて生きる
幼い頃に失ったものは、記憶というより感覚として残る
触れたことのある温度…声…香り
そして、それがもう戻らないことも、どこかで理解してしまう
流鏑馬紅海の中にも、静かに残っているものがある
今では笑うことも出きるし、人と話すことも、冗談を言うこともできる
実際、紅海はよく笑う…明るくて、少し天然で、柔らかい
誰かが困っていれば、自然に手を差し出す
誰かが落ち込んでいれば、隣に座る
その姿は、周りから見れば穏やかな人間に見える
ただ、その奥にあるものを知る人間は、少しだけいる
紅海は、あまり「欲しがらない」し、助けてほしいと言わない
甘えたいとも言わない、わがままを言う事も、ほとんどない
頼まれれば快く引き受けるし困っている人がいれば動く
けれど、自分の望みはいつも後ろに置く
それは彼女なりの優しさで、だが同時に、癖でもある
紅海の中には、静かな計算式がある
守られると、誰かが危ない
幸せになると、いつか壊れる
自分でもきちんと考えた事はない
それでも、身体は覚えている
だから紅海は、幸せな瞬間にふと考える
――こんなふうに、笑っていていいのだろうか
桜の花びらが舞う夜…甘い酒を飲んで歩いている時
そういう何気ない時間の中で、ほんの一瞬だけ影がよぎる
時々思う…誰かに、大丈夫だと言ってもらえたら
抱きしめてもらえたら…きっと、少し楽になる
でも、それはわがままだと思っていて
誰かを危険にするかもしれないし
誰かの時間を奪うかもしれないし
そう思うと言えなくて、胸の奥にしまっておく
酒を飲んだ夜…そんな時だけ、ほんの少しだけ素直になる
人懐っこく笑って距離が少し近くなる
それは、ほんの少しだけ心を開いている証でもある
紅海はまだ、孤独の中にいる
だが本当は孤独の外側で、紅海の事を抱き締めてあげられる人達が待っている
ほんの少し、紅海が踏み出せば、いつでも抱き締める用意は出来ている