第1章 厄日
ぼんやりと覚醒しきっていないこの声は明らかに生きた人間のものだが、鬼鮫は余計に振り向く気をなくした。
関わるのも面倒だ。
後ろでまた伸びをする気配。
声をかけてくるかと思ったが、そのまま獣道に降り積もった朽ち葉をカサカサと踏んで立ち去る様子。吐息のような欠伸の呼気が聞こえる。木から落ちたのだろうに、その痛みより眠気が勝っているらしい。
「ほーい」
遠くから、山の民特有の山中で人を呼ばわる声が聞こえて来た。還る山彦のような、呑気で間延びした呼び声だ。
「あーい」
答えて上がった声はどうやら女のもので、遠ざかる足音が小走りになった。朽ち葉を踏みしめる音が軽やかに遠ざかってやがて消える。
ここで初めて鬼鮫は振り向いた。
うねうねした獣道の先が藪と木立の中に紛れて、人影は見えない。
紅葉した木がまた風に吹かれて葉擦れを鳴らした。
あの腕が垂れ下がっていた木も。
鬼鮫ははっきり顔をしかめて、また歩き出した。
すっきりしない妙なもやつきは、目にした不可解なものが何なのかはっきりしないまま去ってしまったからだろう。
うっすらと気味の悪さが残るのはそのせいだ。
喉にささった魚の小骨、要らなくささくれる指の痛み、履物の中で転がる小石の腹立ち。
些細だがないことにも出来ない苛立たしい引っ掛かり。
矢張り今日は厄日だ。
鬼鮫は顔をしかめたまま歩を進めた。元から出て歩くような気分でなかったものを、これでますますこの仕事に気乗りしなくなってきた。
他里の猟区に入って獲物をとった馬鹿な若者を鬼鮫は探している。
全く下らない。
猟区の獲物が何だというのだ。その獲物がたまたまその猟区にいただけだ。その所有権を主張することに何の意味がある。
大体猟区なんてものを設ける頭が鬼鮫の理解下にない。狩られたものは狩った者の物だ。猟区など知るか。
たかだか山の獣をよその土地で狩っただけのその若者は何の冗談か知らないが500両の賞金首になっている。
これを得るのが今回の鬼鮫の目的だ。
鬼鮫は溜め息を嚙み殺して渋い顔をした。
何の面白みもない仕事を、面白くもない厄日にやらされる。
全く、全く面白くない。
目指しているのは500両の首を持った若者の里だ。
三つの山を住処にする、三山家と呼ばれる山の民の里。
先刻の薄気味悪い腕の持ち主も多分この里の者だろう。
会いたくもないが。
