第1章 厄日
木から、腕が垂れていた。
細いが筋肉質な、日に焼けた腕だ。七分丈らしい筒袖の着こなれて色褪せた朽葉色が、紅葉した木の葉と一緒に揺れている。山に擬態する色なのに、何故だか妙に目を引いた。
見つけてくれと言わんばかりに。
鬼鮫はこの日、人を探して山に入っていた。
いや、人というより獲物。獲物よりむしろ金蔓。つまり仕事だ。
小春日和の11月、風は冷たく陽射しは強く、何ともちぐはぐな秋らしい気候が何がなし鬼鮫を苛立たせる。
山は里より気温が低い。小春日和とはいえ、刺すような風の冷たさも癇に障る。葉擦れの音も気が散るようで、鬼鮫はどんどん不穏になっていった。何もかもが腹立たしい。不愉快だ。苛々する。
要するに、今日の鬼鮫は機嫌が悪い。
朝から同じ集団に属するナルシストの傀儡使いに絡まれ、六度死なないと往生しない化け物に先の任務の領収書をせっつかれ、溜め息を吐きながら山に登れば猪に追突され、落ちて来た朽木に外套を汚される。
恐らく気分が好くようなことなど全く起こらないであろう先行きの暗いこの下らない一日は、まだ半分しか終わっていない。
獣道を苛々と歩いてフと目を上げたその時、鬼鮫は件の腕を目に止めた。
止めてしまった。
赤や黄色の色鮮やかな木の葉の隙から垂れ下がる、色褪せた朽葉色の、筒袖の腕。細く浅黒く、しかし軟弱ではなさそうな妙な腕。
異様だ。
一見した鬼鮫は、見なかったことにして通り過ぎようとした。山中で見るにあまり気持ちのいいものではない不可解さがあったからだ。
鬼鮫は迷信や魑魅魍魎の類を信じないが、世に不可解なものがあることを知っている。本来人の領域ではない海や山なら、そういうものが跋扈していてもおかしくないことも知らないではない。
だから、流すことにした。
胡乱なものには関わらないに越したことはない。まして今日のような厄日には。
大股で歩む足取りに乱れはない。関わらないと決めれば無いも同然。改めて見やって確かめる必要もない。
そうして問題の腕をやり過ごした刹那、背後でどさりと鈍い音がした。重みのある何かが落ちた音だ。
鬼鮫は僅かに眉根を寄せたが、振り向かず歩を進めた。
「あー…いてて…」
小さな声。
「…んー」
ガサガサと立ち上がり、背を伸ばして伸びするような気配と声音。
「…寝てたな…」