第9章 霜刃
「行って帰るのまじないは私には要らない」
霜刃が滑り落とした髪を持ち上げ、小枯が心なし寂しげに言った。
その様が胸を刺す。
霜刃はまだ小枯の髪の感触の残る手を握り締め、開いて静かに答えた。
「俺に要るのだ」
「…そうか。なら貰って行こう。お前からの餞として」
「…それでいい」
霜刃はすっと息を吸い込んで、頷いた。
「私は里に戻らない」
小枯が括り髪を引っ張って、すとんと胸元に落として真顔で言った。
「ずっと前から決めていたことをやっと叶えたんだ。今の私は今までの私じゃない。だから、里に戻って、前みたように人の為にはなれないし、ならない」
小枯の首元にある括り紐の紅が鮮やかに眩しい。
「長く世話になったな。霜刃」
何かを懐かしむように自分を見る小枯へ、霜刃は眩しげに目を細めた。
朝日が差して来た。
小枯の姿がいやにはっきり、隅々まではっきり見える。
「霜刃、お前はおかしなことばかり言う奴だが、でもそのおかしな話を聞くうち、何だか許されているような気がして私は救われていた。…仕様もなく辛いとき、いつ何時も変わらないお前を見て慰められたことも、幾度もあった。だから礼を言って行くよ。ありがとう」
小枯が笑う。
優しい笑み。
削れても失われなかった、小枯の美しさ。
真拆の葛の瑞々しい、初夏の空気が匂い立つような、ずっと変わらない、小枯。
世界が眩しくぼやけた。朝の日差しが目に差したからか、目眩でも起こしたものか、それともー涙が滲んだせいか。
霜刃は小枯から目を逸らさず、深く息を吸い込んで静かに頷いた。
「お前のしてきたことを引き継ぎ、お前が里にいた証を守ろう。その括り紐は、お前が里に居た証しでもある。何処へ行こうと息災であれ。ー本当に身体を厭ってくれ。俺はお前を、いつも見ている」