第9章 霜刃
「落ち着けよ。ここで焦っても鹿や熊は降って湧いたりしねんだ。明日は仕掛けた罠を見て回ろう。大猪にゃ敵やしないが兎なり鹿なり、糠喜びさせちまった分をちっとは五ン合に返してやらんとな」
祝の席で大猪を参の社へ差し出す話を切り出すのに居た堪れない思いをしたのだろう。
痛いような顔で熱燗を煽る雨露を見て鬼鮫は顎を撫でた。気の毒なことだが鬼鮫には関わりない。
「で?私はその猪肉さえ持てば参の社とやらに行って構わないんですか?」
「…あんまり良かないが…」
渋る大枯の顔を霜降がひょいと身を屈めて覗き込んだ。
「参の牟礼の巫女社にゃ世間知らずしかいねえからさ。こいつが余所者かどうかなんてわかりゃしねえよ」
「まあ確かに…あそこの巫女連中はちょっと浮世離れしてはいるよな」
「神域だ何だって言ったって、社は山神様に用のある人間は拒まねえのが身上だ。社の中にゃ入れやしないが、肉を奉納すんのに手を貸したこいつだって境内には入れる筈だぜ?茅場のじいさんのいる本殿に顔を出しちまったらヤバいかも知らんけどよ」
「…茅場のじいさんて、参の宮司をそんな呼び方してお前…」
呆れた大枯に霜降は肩を竦めた。
「それを言ったら霜刃の奴だって権宮司だろ。構え過ぎなんだよ、大枯は」
「参の宮司の前で茅場のじいさんなんて言えるのか、お前は」
「言うわけねえだろ⁉あんなおっかねえじいさん怒らせたかねえもの。何言ってんだ、びっくりすんな」
「…お前って奴は本当に…霜降だな…」
「?おお。そら俺は霜降だよ。今更何だ?…あ、待て、ちょっと止せよ。俺はお前に名前を預けたりしねえからな?」
「馬鹿。誰がお前の名前なぞ預かるものか。人生が総崩れするわ」
渋柿でも食べたような顔で大枯が手を振り、鬼鮫を見た。
「…わかった。ならあんたは猪肉を担いで、社の前まで行ってくれ。境内は駄目だ。あんたは…兎角目立ち過ぎる。参の社には胡乱な相手がいるんだ。今揉めて衆目を集めるような真似は、絶対に、避けなければならない」
「茅場とかいう宮司のことですか」
「里の有力者だ。神成の血筋でもある」
「初枯の大伯父よ」
罠の見回り方でも考えていたのか、指を折って考え込んでいた雨露が割り込んできた。
「いい歳の年寄りだが目端がきいて油断ならねえ。大枯の言う通り揉め事は勘弁だぜ、客人」