第10章 帰還の契りと見えぬ手
山をいくつも越えた先に、有馬の別荘地はある。
温泉街の賑わいから外れた場所、杉と檜に囲まれた静かな山の斜面に、古くからの邸宅が点在していた。
もともとは財界人や旧家の避暑地として造られた場所で、街とは切り離されたように、外界の音が届かない。
石垣の奥に続く細い坂道の先、門をくぐれば、そこはもう“人の世から半歩離れた場所”だった。
有馬の湯を引いた屋敷も多く、どの家にもひっそりとした湯殿がある。
冬は湯気が庭に立ちこめ、夏は山霧が敷地を包み込む。
仁美が身を置いているのは、そんな別荘の一つだった。
ここに居れば、禪院家の目も届きにくい。
街にも出られるが、望まなければ誰にも会わずに暮らせる。
逃げ場としてはあまりにも都合のいい場所だった。
そう…逃げたのだ。
物理的に直哉と離れて、考える時間が必要だったから。
彼の側にいると、その思考が止まってしまう。
直哉の手や唇。
声や諭す言葉さえ、仁美を惑わすものだった。