第29章 弟弟子からの応援と約束
バレンタイン目前の日本棋院のカフェ。緒方は白川と連れ立って入店する。本当はカウンターに座りたい…と思いつつ、白川の「いつもの席でいいよな」に押され、テーブル席に腰を下ろす。白川が「オリジナルブレンド2つ」と注文するのも、ここ1か月の恒例だ。噂を避けるなら、これでいい…と自分に言い聞かせる。タイトルを獲る、それがオレの道だ。
注文後しばらくすると、白川のスマホが震え出す。
「囲碁教室からだ」
白川は呟くように言い、電話に出ながら店外へ消える。いつも忙しそうだな、大丈夫か?と同期を労る気持ちはあるが、今は解放感が勝っている。1人残された緒方はカウンターに目をやる。そこには、以前のようにテキパキと動く星歌の姿。志水くん、変わらないな…胸があたたまる。もう2人で会わないと決めたのに、芦原の「遠慮しないでいいですから」の言葉が頭をよぎる。オレは…あの子のことを…と、心がざわつく。こんな気持ち、持っちゃいけないと、噂のひどさ、年齢差や棋士の立場が胸を締めつける。
星歌がコーヒーを運んでくるが、白川はまだ戻っていない。緒方はカップに視線を落としたまま、そっと声をかける。
「元気か?」
短い言葉に、星歌を傷つけたくない気持ちが滲む。星歌の動きが一瞬止まる。
「はい」
「誰かにひどいことを言われてないか?」
「大丈夫です」
星歌の答えに、よかった…と、胸のつかえが少し取れる。思わず顔を上げると、星歌と目が合う。ゴッホ展の別れ際の静かな瞬間が蘇り、この子も、オレのこと…いや、まさかな…と、心が揺れる。こんな目で見つめ合うなんて、ダメだろ…。想いを押し殺すが、目を逸らすことができない。
ガラス扉が開く音がして、白川が戻ってくる気配に星歌が「ごゆっくりどうぞ」と立ち去る。緒方はコーヒーを手に、もう会わない…それが正しいんだと、十段戦への決意とともに自分に言い聞かせる。だが、久しぶりに交わした会話と絡み合った視線に、高揚感が膨らむばかりだった。