第6章 王子様なんかいらない
「仕事、頑張って来んしゃい」
ドッドッドッ、と相変わらずの低音の車窓から手を振る銀髪の男。
「終わる時間が分かったら、連絡寄越しんしゃい」
それは迎えに来るという意味か?と、さっきから通り過ぎていく通勤者が迷惑そうに残していく視線に一歩、遠ざかる。
「繭結」
そう呼んだ声に、ドキリ、とする。
す、とウインドに掛けられた腕で上体をせり出すと、頬に触れる柔らかな感触。
「いってらっしゃいのチューぜよ」
にこ、と笑った声。
ひらひらと振られる手に建物へと向かう。
独特の低音とともに、彼のスポーツカーがガラスばりのオフィス街を駆け抜けていった。
(連絡を寄越せって、)
昨日アドレスに追加された「仁王 雅治」。
免許証を見せられたが、本名なのか?とまだ、疑う。
トークアプリの「MASA」は名前から取ったのだろう。
女の子がよく使う洒落た字体では無く、ゴシックの4文字。
更衣室で制服に着替え、バックヤードで今日の来客や建物内で行われる催し物の確認をする。
建物の開場となる8時15分。
いつものインフォメーションに入ると、声をかけてきたのは同じ部署で受付係の澤田 怜美。
二つ年上の彼女は今年で25歳。
男女雇用機会均等法が施工されて久しいと言うのに、未だに「総合受付は26歳以下の女性が好ましい」と言う上層部が「1人くらいはベテランがいないと」と配属されて7年目なのは、管理職の誰かの愛人だとか。
一部では「後妻業」とも言われている。
「ねえ、今朝、車で来てたわね」
「そうですねぇ」
タクシーです、と言うにはあまりに厳つすぎる車種に、無難な答えを探る。
「兄の車なんですよ。
何が楽しいのか、うるさいだけなんですけどねぇ」
日本人大好き、身内の下げ発言。
嘘には、少しの真実を混ぜると、リアリティが増すという。
「あら、お兄さんがいるなんて初めて聞いたわ」
「のらくらしてて、両親もお手上げの風癲兄なので」
まるで野良猫のようです、という言葉は噤んだ。
危ない。真実を増やすところだった。
ビルに入る一流企業の将来有望株を探すのに必死な彼女は、そう、と自分から振っておいて、何の興味も示さなかった。
さすがに後輩の親族にがっつくほど飢えてはないのだろう。
焦ってはいるようだけれど。