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俺の名は

第3章 偽物の指先


部屋の前で立ち止まり、女は振り返って笑った。

女「入らないの?」

細い顎を上げ、挑発するように見つめてくる。

その視線で、今まで何度も伏黒甚爾の中で答えを引き出してきたのだろう。

悟はほんの一瞬、無言でその瞳を覗き込み――

ゆっくりと片手を上げた。

顎先を軽く指で支え、唇を近づける。

女の目が驚きに見開かれる間もなく、柔らかな唇が触れ合った。

ほんの一瞬、湿った熱が伝わり香水と甘い息の匂いが鼻先をくすぐる。

キスは深くしない。

ほんの触れるだけ――

それなのに、女は肩を震わせ、呼吸を1つ飲み込む。

女「……っ。」

悟はわずかに口角を上げ、唇を離すと低く囁いた。

悟「……用事がある。」

女は瞬きを繰り返し、状況を理解しようとしたように視線を泳がせた。

女「え……今から?」

悟「そうだ。」

女「……冗談でしょ? こんなとこまで来て……。」

彼女の声は少し掠れ、笑い混じりの抗議の色を含んでいる。

しかし悟はその空気を切り裂くように、軽く肩を叩いた。

悟「また今度。」

言い方は穏やかでも、目は笑っていない。

その“線引き”の鋭さに女は唇を噛み何かを言いかけたが、結局飲み込んだ。

悟は踵を返し、ホテルの廊下を歩き出す。

背後で、彼女が深くため息をつく音が聞こえた。

振り返らずにエレベーターへ向かい、呼び出しボタンを押す。

密閉された小さな箱の中、悟は自分の指先に残る微かな唇の感触を意識しながら心を切り替えた。

――危ない。

ああいう誘いに乗るのは簡単だが、余計な時間を食う。

今は高専に向かうこと、それが優先だ。

1階に降り、フロントの前を通り過ぎる。

外に出ると、真昼の街の空気が一気に肌を包み込む。

昼間特有の埃っぽい熱気と、人々のざわめきが耳に流れ込む。

ネオン街を抜けると、空気は少しずつ澄んでいった。

悟はポケットに手を突っ込み、甚爾の長い足で歩幅を広く取る。

見知らぬ通行人たちが、道を開けるように自然と避けていく。

――やっぱり、この身体は迫力があるな。

背筋を真っ直ぐに伸ばすだけで、相手の視線を圧する力がある。

だがその内側では、別の思考が回っていた。

あの女――

たぶん、甚爾にとっては都合のいい相手。
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