第1章 君の影
甚「……なんだ、これ。」
声が、違った。
低く渋いはずの声が、やけに軽く響きの良い男の声に変わっている。
胸騒ぎを覚え、甚爾は足を床に下ろした。
裸足で歩く感触は、ふかふかのカーペット。
視界の端に映るのは整理整頓された室内、壁には高そうな抽象画。
ここは、どう考えても自分の部屋じゃない。
――鏡だ。
この違和感の正体を確かめるには、それしかない。
戸惑いながらも、甚爾は奥の洗面所を探し当てた。
そして――
鏡を覗き込んだ瞬間、息を呑む。
そこに映っていたのは、伏黒甚爾ではない。
白い髪、切れ長の碧眼、長い睫毛。
いつも飄々とした笑みを浮かべるあの男――
五条悟。
甚「……は?」
鏡の中で、五条悟の顔が驚愕に歪む。
だがその表情は、甚爾の心情をそのまま映したものだった。
目をこすっても、頬を叩いても変わらない。
顔だけじゃない。
肩幅、手の大きさ、背筋の伸び方すべてが悟のものだ。
指先を動かすと、鏡の中の悟も同じ動きをする。
甚「……夢じゃねぇのかよ。」
冷たい水を掬って顔にかけても感覚は、はっきりしている。
どうやら、これは夢でも幻覚でもない。
悟の顔で吐息を漏らしながら甚爾は洗面台に、もたれ掛かった。
理由はわからない。
だが、身体が完全に入れ替わっている。
自分の巨体も、荒々しい手も今はどこにもない。
――面倒なことになった。
悟の姿をじっと見つめながら、甚爾は舌打ちした。
自分の天敵とも言える男の身体を得たところで、何の得があるのか。
だが、同時に妙な優越感も湧いてくる。
この顔、この背丈、この力を持つ男は普段から何を見て何をしているのか。
洗面所を出てリビングに戻ると、スマホがテーブルの上に置かれていた。
ロック画面をスワイプすると、指紋認証があっさり通る。
中には見知らぬ連絡先とメッセージの数々。
――“夏油”、“七海”、“家入”……見覚えのある名前ばかりだ。
その時、不意にメッセージが届く。
夏【おはよー悟。今日の会議、遅れないようにね。】
送信者は夏油傑。
――会議? そんなもん、俺には関係ねぇ……はずなんだが。