第18章 if もしもあの時、止めていたら。
涙の跡が頬を伝っている。それでも、その横顔はどこか穏やかだった。
“生”を選んだ者だけが見せる表情――俺は、それを知っている。
一歩、後ろへ下がる。
空を見上げる。そこには雲ひとつなく、静かな青が広がっていた。
――それでいい。
――それでいいんだ。
彼女がこの先、誰を想うことがなくても、二度と自分に微笑みかけてくれなくても。
それでも、彼女がこの世にいる限り、俺の願いは叶っている。
(……ありがとう、アルネリア)
声にならない言葉が、朝の風に溶けていった。
⸻
【手向け】
時間が止まったような静寂のなかで、彼女は剣を手に取り、ゆっくりと布で拭った。
血を拭い、土を拭い、柄の根元に白い紐を結ぶ。
それは、彼女の髪と同じ色だった。
「お返しします。……ずっと、ありがとうございました」
その言葉と共に、剣は彼の胸へと戻される。
もう再び抜かれることはない。
“白き刃”は、主と共に眠るのだ。
俺は黙って見ていた。
ただ、胸の奥で何かが崩れていくのを感じていた。
悲しみでも、後悔でもない。
もっと静かで、もっと深い、祈りのような感情だった。
「……その手、見せてください」
彼女の声に、我に返る。
見ると、俺の掌から血が滴っていた。
さっき、刃を掴んだときの傷がまだ塞がっていない。
「……いい、こんなもの」
「いいえ。……これは、私がつけた傷です」
布を裂き、手早く包帯を巻く。
結び目がきゅっと締まり、少しだけ痛みが増した。
だが、不思議と温かかった。
「この先の行き先を、今決めなくてもいい。ただ、今日だけは生きて帰る。それで十分です」
「……ああ。そうだな」
彼女の声はかすれていたが、確かに前を向いていた。