第16章 特別幕間 赤の葛藤(シード視点)
「シード」
今度は正面から。
アルネリア が近づいてくる。
汗が髪に光って、呼吸は乱れていない。
「昨日は、ありがとうございました」
「何の話だ」
「……水、です。最初の」
胸が少しだけ熱い。
「当たり前だ。お前は剣だ。刃は乾かさない方がいい」
「心得ます」
いつもの調子、いつもの敬語。
それでいい。それがいい。
俺は笑う。手短に。
「じゃ、次の型、合わせるか」
「お願いします」
俺たちは剣を交えた。
刃と刃の間に、言葉は要らない。
だけど、言葉にできない熱だけは、確かにそこにいる。
⸻
夜。
誰もいない厨房で、俺はひとり、空になった水差しを洗った。
石の流しに落ちる水が、指の節を冷やす。
胸の火は、消えない。
消さない。
燃やしつづける。
誰にも見えないところで、静かに、長く。
彼女が笑っている間は、俺はこの火に油を差さない。
怒りも、嫉妬も、奪いたい衝動も――全部、蓋をする。
もし蓋が外れそうな夜は、手を動かす。水を回し、甘さを整え、席の温度を下げる。
それが、俺にできる全部だ。
「――お前が幸せなら、それでいい」
声に出してみる。
石壁に吸い込まれて、何も返ってこない。
それでいい。
返事はいらない。
俺は俺のままで、彼女の傍にいる。
境界のこちら側で、ずっと。
盃を棚に戻し、戸を閉める。
夜気が頬に触れる。
心臓、静かにしろ。
明日もまた、剣を磨く。
“最初は水”――それを忘れずに。