第16章 特別幕間 赤の葛藤(シード視点)
戦の記憶がよぎる。
雪の峠で背中合わせに立った夜。
火矢が降り、視界が切り刻まれ、足場がなくなって、息の音だけが互いの居場所だった。
「右、二」「了解」
それだけのやりとりで、彼女は敵の喉を二度、切り結んだ。
俺は左の兵を落とし、彼女の肩口にかかる血を袖で拭った。
震えはなかった。二人とも戦士だった。
それがどうしてだろう、今は彼女の指先からパン屑を払う仕草ひとつに、心が動く。
誰かが差し出した皿に「お気遣い、痛み入ります」と言った、その柔らかさに、胸が痛い。
戦場より、痛い。
戦場では刃が痛みを連れてくるけど、今夜は、笑顔が痛みを連れてくる。
笑ってくれ。
……頼むから、笑っててくれ。
俺はそこに触れない。触れたら終わる。
壊してまで欲しいものなんて、この世にない。
あるとしたら、彼女が笑っている景色だけだ。
⸻
「シード、こちらを」
侍従が新しい瓶を持ってきた。
「置いとけ。――いや、待て。先に水を回せ」
「畏まりました」
些細なことだ。誰も気づかない。
でも、こういうのを積み重ねるのが俺の役目だ。
剣の刃先を鈍らせない。人の心を溺れさせない。
甘さは薬にも毒にもなる。匙加減は、こちらで持つ。
遠目に、クラウスが記録を取らずに目だけで“記憶している”のが見えた。
あいつは賢い。余計なものを書き残さない。
クルガンはいつもの柱の影、腕を組んで静かに頷いている。
隊の空気が、良い。
こういう夜は、明日を戦える。