第14章 その名に宿るもの
「アルネリア。」
「はい。」
「“陛下”はやめろ。名で呼べ。」
短い沈黙。灯がその間を柔らかく埋める。
彼女は息を整え、顔を上げた。
「……ルカ様。」
それだけで、胸の底の何かがほどけていく。
戦場のあらゆる勝利より重いものを得たと錯覚する。
「……悪くない。」
自分でも信じがたいほど低く、柔らかな声が落ちた。
彼女の睫毛が揺れ、頬に淡い朱が差す。
「こちらに、来い。」
命令――だが、その実、願い。
アルネリアはためらいなく立ち、机を回って隣に座る。
肩と肩が触れ、互いの体温が布越しに伝わる。近い。
近いのに、乱暴な熱はない。ただ、静かな渇きがある。
指が伸び、彼女の髪に触れる。
銀糸が指の間を流れ、音もなく落ちる。
その柔らかさに、不意の安らぎが立ち上がる。
あの夜――彼女は声を殺し、静かに息を震わせていた。
掌に伝わった涙の温度が、まだ確かに残っている。
言葉の前に、名がある。
名の前に、触れることがある。
触れる前に、呼吸がある。
呼吸の前に、心がある。
「アルネリア。」
彼女がゆっくりこちらを向く。灯が瞳に落ち、深い湖のように光を受け止める。
命令では届かない距離、勝利では埋まらない空白――名を呼ぶことでしか渡れない峡。
自分でも驚くほど静かな声が零れる。
「……お前が、欲しい。」
彼女の瞳が揺れる。恐れではない。驚きと、理解と、そして――同じ位置に立つ者の覚悟。
返事の代わりに、アルネリアは自ら距離を詰めた。指先が服の端をつまみ、胸元にそっと額を寄せる。
「……私も、です。」
囁きは影の重なる場所で灯に溶けた。