第14章 その名に宿るもの
風は止み、火だけが壁を撫でていた。
静まり返った部屋は、紙の擦れる音さえ吸い込んでしまう。
戦のない夜は広すぎる。胸の奥に残るざわめきが、余白の分だけ増幅される。
「……アルネリアを呼べ。」
短い命令。衛兵が頷き、まもなく扉が叩かれる。
「入れ。」
灯の輪の中に彼女が立つ。白の軍装は端正で、銀の髪が微かに揺れた。
規律の線が美しい――そのひと目で、胸の中の余白が音もなく埋まっていく。
「呼ばれましたので、参りました。ご用件を。」
「座れ。」
机を挟んだソファを指す。彼女は一礼し、音を立てず腰を下ろす。
灯が揺れ、二人の間に薄い金の膜が降りる。夜は言葉よりも呼吸に敏感だ。
「……アルネリア。」
名を呼ぶ。
彼女の肩がかすかに揺れる。驚き、緊張、そしてどこかの安堵――それらが一瞬の身じろぎに宿る。
「……陛下、今……私の名を?」
「ああ。“お前”では味気ない。」
机上の瓶を手に取り、二つのグラスに赤を落とす。
香りが立ち、硬い空気がひと呼吸ぶんだけ柔らぐ。
「苦手なのは知っている。飲めるだけでいい。」
「……はい。」
唇が硝子に触れ、喉が細く動く。視線が自然に外れた。
そのささやかな飲み下しに、戦より強い緊張を覚える自分が可笑しい。
「陛下……こうしてお呼びいただくのは、理由があるのですか。」
「理由がなければ呼べぬのか。」
「……いえ。」
指先が膝の上で小さくまとまり、それがほどける。
夜は、言葉にしないものを先に照らす。