第12章 幕間 戦略家の沈黙
そのとき後方で、シードが無言で水差しを持って歩いた。
配る順番は、負荷が高い者から――いつもと同じロジック。
だが、アルネリアの前だけ半歩“間”を置く。
それは丁寧さであり、そして、触れないための距離だった。
彼は“触れない”ことを恐れているのではない。“触れてしまう”ことを恐れている。
(……なるほど)
クラウスは、胸のうちでだけ頷く。
書面には起こさない。
記録は秩序を守る。だが、記録されない秩序もまたある。
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昼刻、帳場の机の前。
補給路の案を三つ、クラウスは地図に置いた。
「水場を要に、甘味――失礼、塩気を挟んで負担を散らします」
言い間違いに、シードが薄く笑う。
「言いたいことは通じた」
「では第二案で。峠は昼に越える。疲労の山は前半に」
ルカ様の短い裁可。
「御意」
退室の間際、クラウスはシードに歩調を合わせる。
「……昨夜の配膳、助かりました」
「仕事しただけだ」
「ええ。――よく、やっている」
シードは短く肩を竦め、ついでのように問う。
「なぁクラウス。お前の記録、どこまで書く?」
「戦と政に必要な分だけです」
「……そうか。助かる」
助かる――は、彼の本音だ。
助かる、の中には「救われる」が含まれている。
クラウスは、それ以上は聞かない。
問いを増やすと、答えが生まれ、答えは均衡を動かす。
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夕べ、回廊の陰。
アルネリアが侍従に「ありがとうございます」と言って頭を下げた一幕があった。
そのごく些細な礼に、近くを通った兵が顔を上げ、背筋を伸ばした。
礼は伝染する。秩序も、伝染する。
それを横目に、シードが歩を一瞬だけ緩める。
彼は“嬉しい”と“苦しい”を同時に抱えた顔をした。
クラウスは、見てしまった――とだけ認識して、何も言わなかった。
(気づいたからと言って、何かを言う権利は、私にはない)
心情は戦略に影響する。
だが、ここで介入すれば、もっと大きな秩序を壊しかねない。
ルカ様とアルネリアが築きつつある均衡。
シードが、自分の中で火を囲い、誰にも燃え移らせないでいる均衡。
それらは脆いが、美しい。