第10章 幕間 剣ではない時間
夜。
部屋に戻ったアルネリアは、灯りをひとつだけ灯して机に座った。
買い物袋から一枚の香布を取り出し、そっと机の上に置く。
指先でなぞると、昼間の香りがふわりと蘇った。
「“剣以外”の自分、か……」
ぽつりと零れた言葉が、静かな部屋に溶けていく。
剣として生きることは、父への遺志であり、己の誓いだった。
それは決して揺らがない。今でも、これからも。
けれど今日、自分は一瞬だけ“剣ではない”姿で呼吸をした。
戦わず、命じられず、斬らず、それでも“生きていた”。
それは、とても小さな変化かもしれない。
だが、戦場で培ったどの技よりも、心を深く震わせる変化だった。
「……悪くない、か」
呟きとともに灯りを消す。
香布の香りが、夜気と混ざって広がっていく。
その香りは、刃の匂いとは違う。
血の匂いとも、炎の匂いとも違う。
それは、ただ“人として生きる”者の香りだった。
そしてアルネリアは、目を閉じる。
明日になればまた剣となり、戦場に立つだろう。
だが今日の記憶は、きっと消えない。
“剣ではない自分”が確かに存在した、かけがえのない一日として――