第9章 幕間後日談 甘さの残り香
「名もなきものの重量」(ルカ様視点)
執務机の上、未決の報告が三つ。決裁済みが一つ。
窓外で雲が弦のように張られ、遠い街道に白い点が走る。
視界の半分で“国”を見、もう半分の端に“あの夜”が居座っている。
――名をつけるな。
それは昔からの掟だ。
名は形を与え、形は意志を呼び出す。意志は行いとなり、行いは戦を変える。
“あの夜”から、胸の内に“軽いもの”が置かれた。
軽いのに、どかない。手のひらに乗せると、体温を持つ。
持つと、離しにくくなる。
だから、机の隅に置く。
置きながら、視界の端で見張る。
見張りながら、何度か――悪くない、と思った。
扉が叩かれる。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのはクラウス。手には簡素な書付。
「行軍路、三案に絞りました。甘味と塩気を交互に――いえ、要所に水場を挟みつつ、補給の負担を散らします」
ルカは一瞬だけ目を細める。
“甘味と塩気”。
“水場”。
言葉は偶然に似せて、意図を運ぶ。
「二案目だ。峠は昼に越える。負担を前半に寄せる」
「御意」
クラウスが退室し、静けさが戻る。
窓外、雲の弦がたわむ。
名のないそれは、相変わらず机の隅にある。
指先で少し転がす。
尖ってはいない。だが、丸ければ安全というわけでもない。
――戦の前に、剣に油を。
――宴の前に、最初の水を。
どちらも、ほんの少しずつ、戦の形を変える。
「……悪くない」
声は誰にも聞こえない。
紙の上でだけ、風向きが一度、静かに変わった。