第9章 幕間後日談 甘さの残り香
「紅茶と肩越しの空」(クラウス/アルネリア)
訓練の合間。
廊の窓辺に、蒸らしたばかりの紅茶の香りがふわりと漂った。
クラウスは二つのカップを盆にのせ、足音を立てないように近づく。
「――失礼。少し休憩を」
差し出した先、アルネリアはわずかに首を傾げ、「拝領」とだけ答えて受け取った。
「甘さは控えめですが」
クラウスが言うと、アルネリアの指先が一瞬だけ止まる。
“甘い”という語は、この数日、彼女の周囲で不思議な魔力を帯びていた。
「……ありがとうございます」
湯気越しに、剣の匂いは薄まる。
カップの縁に口を寄せ、ゆっくり一口。
アルネリアの肩から、目に見えない重しが一枚、剥がれ落ちた。
「その……」
クラウスは言い淀んだ。観察はできる。だが言葉を選ぶ器用さは、まだ道半ばだ。
「“あの夜”のことは、記録には残していません」
「記録?」
視線がこちらを向く。眠っていない瞳。戦場で鍛えた、まっすぐな刃の眼。
「はい。――戦績ではなく、雰囲気の記録です」
クラウスは正直に言った。「残すべきでない夜だと、判断しました」
短い沈黙。
やがて、アルネリアは小さく息を吐く。「賢明です」
「もし、誰かが何かを笑ったなら、それは……」
クラウスは言葉を探し、手元の紅茶に視線を落とした。「彼らなりの、安堵です」
アルネリアは、カップの縁に指を沿えた。
「誰も、笑ってはいませんでした」
「――そう見えたのなら、きっと、それが真実に近い」
廊の外で風が鳴った。
言葉にしない“了解”が、二人の間に落ちる。
クラウスは立ち上がる気配を作りかけ、ふと振り向かずに言った。
「……次に祝いの席があるなら、最初は水です」
「最初から、ですか」
「はい。最初から」
廊に笑いが流れた。誰のものでもない、空気の笑い。
アルネリアの口元が、目に見えない分だけ緩んだ。