第8章 幕間 祝いの夜
名をつければ、それは形になる。
形になれば、戦を変える。
戦を変える覚悟が、今の自分にはまだない。
だから彼は、ただ黙って見ていた。
***
朝。
光が差し込み、寝台の上のアルネリアがゆっくりと目を開けた。
頭は重く、喉は渇いている。枕元の水を飲み干し、視線を横にずらすと、椅子の上のルカと目が合った。
「……陛下」
「気分はどうだ」
「最悪です」
即答に、ルカは小さく口角を上げた。
「昨夜のことを覚えているか?」
「……覚えていません」
「本当にか?」
沈黙。
アルネリアは天井を見上げ、断片的な記憶が断続的に蘇ってくるのを感じた。
苦い酒。喉を焼く熱。甘い果実の香り。袖の感触。
――そして、「父様」。
顔から火が出るような感覚に耐えきれず、両手で覆い隠す。
「……覚えていません」
「そうか」
それ以上、ルカは追及しなかった。
「もう二度と酒など飲みません」
布越しの声は、くぐもって聞こえた。
「そうしろ」
短く返す声に、どこか穏やかな響きがあった。
***
「本日の任務は軽い。剣は休め」
「命、了解」
表情を整えたアルネリアは、いつもの“白き剣”の顔に戻っていた。
だがルカの胸の奥には、名もなき感情がまだ残っていた。
それは剣とは関係がない。戦とも関係がない。
けれど確かに“そこにある”と、彼は認めざるを得なかった。
廊下を出たところで、シードが肩を竦める。
「叱られる覚悟はできてますよ、ルカ様」
「叱りはしない。……次は、最初から甘いものにしろ」
「了解」
クルガンは無言で頷き、ソロンは目だけで笑い、クラウスは昨夜の“わずか”を胸にしまい込んだ。
***
その日の午後、鍛錬場に剣の音が戻った。
アルネリアの太刀筋は、ほんの少しだけ遅く、しかし前よりも確かだった。
剣は研ぎ直されるたび、刃筋がより明確になる。
人の心もまた、ひとたび揺れれば、次に向かう輪郭が浮かび上がる。
ルカは遠くからその姿を見つめながら、昨夜から胸の奥に置かれた“何か”を手放さずにいた。
それに名はない。形もない。
ただ、手のひらで転がし、確かめ続ける。
戦を変える時が来るまでは。
そして、誰にも聞こえない声で呟く。
「……悪くない」