第5章 焔の揺らぎ 名も無き祈り
夏の風は重く、血と灰の匂いを孕んでいた。
焦げた草が踏み砕かれ、風がそれを運んでいく。
行軍の音が夜気を割り、鎧の金属音が低く響いた。
青い旗が翻る。その先頭に、ルカ・ブライトはいた。
獣の瞳を持つ男。
その横を歩くのは、無言の女――アルネリア。
彼の命に従い、ただ敵を斬るために生きる者。
心も、痛みも、すでに置き去りにしたはずの剣。
その夜、標的となったのは国境沿いの小村だった。
都市同盟の兵が駐屯し、民を守るために立っているという。
ルカの命令は、簡潔にして冷酷だった。
「――排除しろ。すべて斬れ。」
火矢が放たれると同時に、空が赤く裂けた。
藁葺き屋根が燃え上がり、乾いた木が爆ぜる音が響く。
人の叫びが風に乗り、炎の粉が空を舞った。
アルネリアは迷いなく歩いた。
剣を抜き、敵の喉を裂き、刃を返し、血を払う。
その動きには、一片のためらいもなかった。
命は等しく“斬るもの”であり、考える対象ではない。
彼女にとってそれは――呼吸と同じだった。
都市同盟の兵たちは、必死に村を守っていた。
剣を震わせ、槍を構え、家族のために立つ。
だが戦場は理屈を拒む。
どんな正義も、鋼の前では同じ重さで倒れる。
アルネリアの剣は、容赦なくそれを貫いた。
兵の首筋を断ち、肩口を裂き、また一人、また一人と地に沈む。
動作は滑らかで、獣のように速い。
彼女の内には熱もなく、ただ冷たい“静”が支配していた。
――そのはずだった。
燃える家々の間、ふと視界の端に小さな影が映る。
崩れた壁の傍で、幼い少女が母の亡骸に縋りついていた。
煤けた指でその頬を撫で、必死に呼び続けている。
泣き声が、炎よりも鮮烈に空気を震わせた。