第23章 追加if それから しまっておく気持ち
そう言って、彼は外套を肩に掛けたまま、針目を眺める。
その目が彼女ではなく縫い目に向いているとき、アルネリアは少しだけ楽になる。
向けられる“温度”の中にいなくて済む時間が、彼女にはまだ必要だからだ。
「……抱きしめてもいいか」
彼はいつも確認を取る。所有ではなく、「帰る場所がここにあっていいか」を確かめるように。
アルネリアは顔を上げ、小さくうなずいた。
「……はい」
肩に回る腕は、檻ではない。
背を支える手のひらは、岸のように静かだ。
耳のすぐ近くで、彼の鼓動がひとつ、またひとつと落ちていく。その音が、今も二人が生きていることを教えてくれる。
アルネリアは目を閉じた。ここは逃げ場ではない。ただ、まだここにいると確認できる場所だ。
抱擁が終わると、ふたりは少し離れて並び、同じ空を見上げる。
訓練場の声が遠くで響き、鐘の音が一度、二度と刻まれる。
日が沈んで灯が入る頃、彼は必ず言う。
「戻ったら、また言わせてくれ」
「……わかりました」
しまっておく。
そう決めた気持ちの扉は、今日もきちんと閉じてある。
*
ある日、帰りが遅れた。
約束の刻を過ぎ、鐘が一度鳴り、二度鳴っても、足音は戻ってこない。
アルネリアは灯を増やしては消し、油を注いでは絞る。手を動かしていないと、頭が勝手に最悪の未来を描き始める。
「……帰って、こない……」
ぽつりと漏れた声は、小さく震えていた。
帳面の今日の欄は空白のままだ。いつもなら“帰還”と先に書いておくのに、今日は書けない。
指先が卓の角をなぞる。石の冷たさだけが確かで、その冷たさだけが「まだ終わっていない」と告げていた。
扉が開いたのは、翌日の早い刻だった。
乱れた外套、息の荒さ、聞き慣れた足音。
「……ただいま」
「……シー、ド……遅い、遅いです……!」
声が勝手に溢れた。責めたいわけじゃない。責めるつもりもなかった。
ただ、頬が熱くなり、視界が滲んでいく。指の腹が卓から滑り落ち、空を掴んだ。涙が、止まらない。
シードの顔が一瞬だけ強張った。驚き、戸惑い、そして理解がそこにある。
それでも彼は何も言わず、静かに距離を詰めた。
問うことも、言い訳も、今日は必要ないと分かっているのだ。