第23章 追加if それから しまっておく気持ち
朝の城は、静寂という名の薄い膜に包まれている。
夜の冷たさがまだ石造りの壁に残っていて、誰も通らない回廊の奥で、古い燭台がひとつだけ息をしている。
アルネリアはいつもの小部屋の卓で湯を沸かし、二人分の茶を用意していた。
一つは湯気だけが立ち上り、もう一つは自分の両手で包み、じんわりとした温もりを確かめる。
それは「生きている」という確かな手続きのようなものだった。
やがて、扉の蝶番がきしむ音がする。足音のリズムで、誰が来たのかは分かる。
「……ただいま」
「おかえり、なさい」
シードは外套を脱ぎ、重たい鎧の留め具を外した。肩の動きが、少しだけ鈍い。
は布を取り、無言のまま彼の手を取った。煤に紛れて見えにくいが、浅く切れた傷がいくつもあった。
「痛みますか」
「平気だ。浅い」
「……よかった、です」
湯気の向こうで、彼は微かに目を細めた。
二人で茶を飲む。言葉は少ない。音も少ない。
それでも、この静けさは冷たくない。氷ではなく、体温の隣にある静けさだ。
「アルネリア」
「……はい」
「今日も、生きてくれてありがとう。……愛してる」
その言葉は、なにかを求めるための呪文ではない。
彼にとってそれは、目の前の彼女が「ここにいる」という事実を撫でるような、祈りの言葉だった。
アルネリアはうつむき、湯気の向こうに視線を沈める。
「……ありがとう」
それ以上は言わない。言えない。
胸の奥では、まだ別の名前が熱を持ち続けている。その熱が消えることは、きっとないのだと知っているから。
*
日々は似ているようで、少しずつ違っていく。
昼、アルネリアは窓辺に腰掛け、繕い物をする。外套の縫い目、手袋の穴、襟のほつれ。
針が布を貫くたび、かすかな音がして、心臓の鼓動がゆっくりと落ち着いていく。
「剣を握る手の代わりに針を持つ」と決めてから、手は少しずつ“生きる手”を思い出し始めた。
夕刻、彼は必ず戻ってくる。
扉が開くたび、アルネリアは茶を二つ用意する。そのうち一つは、彼のためにいつも温かくしておく。
「上手くなったな」
「まだ、です。何度もやり直しました」
「やり直した分だけ、強くなるんだ。布も、心も」