第22章 追加if 花の名の記憶
湯気が立ちのぼる。
香りに、ほんのわずかな花の匂いを感じたのは、気のせいだろう。
湯のみを受け取りながら、彼女は小さく呟いた。
「……“アルネリア”で、よかった、です」
それは自分に言い聞かせる言葉のようでもあり、父親へ向けた手紙の締めくくりのようでもあった。
俺は頷く。答えはいらない。
花がひとつ、ふくらんだように見えた。
その日から、彼女は時々、窓辺の花に向かって話しかけるようになった。
声に出すわけではない。ただ、唇の形だけがやさしく動く。
俺が部屋に入ると、その動きは止まる。けれど、止まったところからまた、少しずつ前に進む。
“忍耐”は、貼り付けられた重りではなく、二人で持ち替えられる軽さを、少しだけ手に入れた。
外では、ぎこちない休戦がまだ続いていた。
花は水を吸い、影は伸びたり縮んだりして、何も言わずに時間を教える。
そのたびに、彼女はすこしだけ笑う。俺も、うまく笑い返す。
――アルネリアという名は、今日もこの部屋で、確かな音を立てて生きている。