第22章 追加if 花の名の記憶
やがて、彼女は花束へ視線を落とし、袖でそっと目元を拭った。
「……私の名前、知ってますよね。
“アルネリア”。本当は“アルメリア”になるはず、だったんです」
「……え?」
「父が、つけようとした名前が、この花の名前でした。
村の中に、春になるとこういう花が丸く咲いていて……それが、とてもきれいで。
だから“アルメリア”にしようって、そう決めていたのに……」
淡い笑いが、涙の間から一度だけのぞく。
「出生の紙に、急いで……筆記体で書いて」
彼女は机の端から羽根ペンを取り上げ、インクを含ませると、さらさらと紙の上に二つの単語を書いた。
arumeria
aruneria
「……ほら。似てるでしょう?」
インクの光が乾く前に、指先が震えた。
確かに、ほんの少しの線の流れで、別の名前になってしまう。
父はあまりに嬉しくて、震える手で筆を走らせたのだという。
「役所の人も、“花の名前だなんて”って思ったらしくて……。
――“アルネリア”で、登録されてしまって」
そこまで言って、彼女は肩を落とした。
笑いでも泣きでもない、古い記憶をそっと撫でるような息が漏れる。
「父は“それならそれでいい”って言いました。
“アルメリアは確かに可愛らしい花だけど、アルネリアはそれ以上に可愛く、美しく育ってくれる”って」
その言葉が、彼女の胸の奥に今でも残っているのだと、声の揺れで分かった。
俺は花束を見つめる。球状に集まった小さな花々は、ひと房ごとに別々の光を持っている。
たぶん父は、この花の名前ではなく、この子の未来に名を与えたのだ。
「なるほど……それで、か」
花束を机に置き、もう一度だけ彼女の肩を抱く。
彼女は目を閉じ、息を長く吐いた。
まだ濡れた睫毛に、窓からの淡い光がひっかかる。
「じゃあ、花言葉は知ってるか?」
「……いえ。知りません」
「思いやり、共感、同情、心遣い……とか、いろいろあるが」
そこで一拍置く。
彼女の目がこちらを見る。涙の薄い膜の向こうで、黒曜石みたいに静かな光が宿る。
「――忍耐、って言葉もあるんだぜ」