第89章 それぞれの夜〜冨岡義勇
「悪かった、だから落ち着いてくれ…」
逃げ惑うゆきを、義勇は力任せではなく、優しく抱き寄せた。
「離して下さい。お願いです、もう構わないで」
ゆきの涙が頬を伝って義勇の腕にこぼれ落ちる。
唇を噛み切られた痛みなど気にも留めず、義勇はその涙を拭うことさえ許されない己の立場を噛み締めるように、ゆきの項に顔を埋めた。
「嫌だ。お前が泣いているのに、背を向けることなどできない」
「私が泣いているのは、義勇さんのせいよ!」
叫びと共に振り返り、義勇の胸を拳で叩いた。
だが、その拳にはもう、逃げ出すだけの力は残っていなかった…。
義勇は、叩かれるがままにじっと動かなかった。
滴る血が顎を伝い、義勇の寝間着を汚していく。
その痛々しい姿に、ゆきの動きが止まった…。
「あっ…唇…さっき私が…噛んだ…」
ゆきが、思わず義勇の唇にそっと触れた。義勇の瞳が僅かに揺れる…
「俺には、こうすることしか分からない。お前を繋ぎ止める術が、これしか…」
不器用な言葉と共に、義勇は再びゆきを抱きしめた。
「義勇さん…私は大丈夫です。だから義勇さんは部屋に戻って休んでください。」
「嫌だ。今夜はお前の側を離れたくない」
「義勇さん…」
ゆきは、義勇の胸板から伝わる心音を耳にしながら、いけないと思いつつも安らぎを感じていた。
拒絶すればするほど、義勇の孤独が自分に流れ込んでくる。
結局、逃げ切ることなど出来なかった。
「…卑怯よ、義勇さんは」
小さな呟きは、暗い屋敷の中に消えた。
義勇は何も答えず、ただ強く、ゆきを抱きしめ直した。
そして、暫くして義勇ゆきを抱きかかえ寝室に向かった。