第89章 それぞれの夜〜冨岡義勇
時は今朝に戻るー
朝の光が降り注ぐ中、無一郎は眠気に襲われていた。
一晩中、美月の「亡き母の形見」という嘘に翻弄され、森を彷徨い続けた代償は重かった。
美月に手を取られ、辿り着いた藤の花の家紋の宿
漂う藤の香りは、疲弊しきった無一郎の神経を優しく、解きほぐしていく…。
「少しだけ眠るよ。君も、部屋で休むといい…」
それだけを辛うじて告げ、無一郎は用意された部屋の布団へと倒れ込んだ。
すぐに夢の中へと無一郎は引き込まれていった、現実と夢の境界線が溶けて消えていく…。
夢の中で、無一郎は、ゆきを抱きしめていた。
腕の中に伝わる、柔らかく温かな感触。
鼻をくすぐる甘いいつもの香り。
「ゆき…会いたかった…」
無一郎は、その温もりにが逃げないように力を込める。
ゆきさえいれば、何もいらない。この安らぎだけが、無一郎にとってのかけがえの無い真実だった…。
しかし、穏やかな夢は突如として終わる。
腕の中のゆきが、必死に訴えてくる。
「起きて…起きて、無一郎くん! それは私じゃない…私じゃないの!」
その叫びは、無一郎の鼓膜を、そして魂を激しく揺さぶった。
「っ!!」
跳ね起きるように目を開ける。
思考は混乱し、視界は定まらない。
自分がなぜここにいるのか、今の声は何だったのか。異様な量の汗が、背中を伝う。
まだ夢の続きにいるような、朧げな意識のまま…
無一郎はすぐ隣にある、確かな「温もり」に本能的に手を伸ばした。
今度こそ離さないように、失くさないように、その体を強く抱き寄せた。
「ゆき…ごめん、もう離さないから。お願い…まだ…こうして寝ていたい…」
子供のように甘える、無一郎
だが、耳元で返ってきたのは、無一郎が求めた声ではなかった。
「…無一郎様…」
ゆきの声じゃない…無一郎の全身が凍りついた。
抱きしめている体は、ゆきではない。
完全に目覚めた無一郎の瞳に映ったのは、赤く染まった頬の自分を見つめる美月の姿だった。