第83章 新しい生活
道場に足を踏み入れると、そこには以前と変わらぬ空気が流れていた。
義勇は涼しげな表情を崩さず、真っ直ぐにゆきを見据えて待っていた。
つい数日前までここで共に過ごしていたはずなのに、竹刀を握る手の感触さえ、ひどく懐かしく、遠い記憶のように感じられた。
「……お願いします」
短く一礼し、稽古が始まる。
打ち込みの音だけが静まり返った道場に響き渡る。
無心に体を動かしている間だけは、しのぶから言われた鋭い言葉も、宿舎での針の筵のような視界も、すべて忘れることができた。
だが、無情にも時は過ぎる。
日がもうすぐ沈む時間になっていた。
…もう、行かなきゃ
陽が落ちれば、隊士宿舎へ戻る門限がやってくる。
お館様へのしのぶの働きかけにより、予定より早まった宿舎生活。
これ以上、義勇の傍にいてはいけないと己に言い聞かせて屋敷を出たはずだった。
しのぶもきっと、二人が共に暮らすことを疎ましく思い、背中を押したに違いない。
頭では分かっている。なのに、足が一歩も外へと向かない。
「……ゆき」
名を呼ばれ、肩が小さく震える。
振り返れば、夕闇に溶けそうな義勇の瞳が、静かに自分を見つめていた。
その眼差しに甘えてしまいたい衝動を、必死で 飲み込む。
ここで弱さを見せれば、すべてが崩れてしまう。駄目よ…
「…お世話になりました。また、明日の稽古に伺います」
仮面が剥がれ落ちないよう、精一杯の強がり…。
悟られてはいけない。この足が、本当は一歩もここから動きたくないと叫んでいることだけは…。
「ゆき!」
義勇の呼び止めで、ゆきは立ち止まった。
「宿舎は、どうだ?うまくやっているのか?もし…合わないなら帰ってきてもいいんだぞ!」
ゆきは、一度も振り返らないまま答えた。
「心配いらないです。みなさん親切で楽しくお稽古に励んでいます。」
「なら…良い…」
ゆき…本当なのか?今朝ここに来た時からお前の様子は変だ…毎日一緒に居たんだ…俺が異変に気付かないわけないだろう…
朝食を取りながら泣いていたではないか…
屋敷を去るゆきの小さな背中が心細げに義勇は、感じた…。