第10章 囁きに溺れて
タ「……かわいい。」
低く掠れた声でそう囁き、彼は小さく笑った。
女の頬は真っ赤に染まり、胸は荒く上下している。
「な、なんで……。」
タ「今日はここまで。」
彼はあっさりと言い腕を下ろすと、1歩離れた。
壁に押さえつけられていた身体が解放され、女は呆然としたままその場に立ち尽くす。
「……っ。」
混乱する頭で必死に言葉を探すが、何も出てこない。
キタニは余裕のある笑みを浮かべ、ポケットに手を入れる。
タ「また連絡する。……ゆっくり休んで。」
踵を返し、夜の暗がりへと歩き出す。
女の目には、その背中が妙に遠く映った。
「ちょっと……待って。」
声をかけたが、彼は振り向かない。
ただ片手を軽く上げ、ひらりと振って見せた。
やがて街灯の明かりの外に消えていく。
残されたのは、まだ唇に残る熱と押さえつけられた壁の冷たさ。
女は玄関の扉に背を預け、ゆっくりと息を吐いた。
「……なに、それ。」
期待と緊張が一気に肩透かしを食らい、胸の奥に痺れるような感覚だけが残る。
触れられた唇を指で押さえると、熱がまだそこに確かに宿っていた。
「……ずるい。」
小さく呟き、頬を覆う。
高鳴る鼓動は落ち着かず、彼の笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。
壁に押し付けられた感触と甘いキスが甦る。
そして最後に残された、彼の余裕ある笑み。
“また連絡する。”たったその一言が、胸の奥をかき乱して離れなかった。