第1章 揺れる熱の狭間で
タ「……お前ってさ、本当に鈍感だよな。」
その言葉は、からかうような響きと、ほんの少しの苛立ちを含んでいた。
「え、何が?」
女が首を傾げると、キタニはわずかに笑ってみせる。
だがその笑みは、どこか馬鹿にするような色を帯びている。
タ「いや、別に。何でもない。」
そう言って視線を前に戻す。
信号が青に変わり、彼はさっさと歩き出した。
女は取り残されそうになりながらも慌てて後を追う。
「ちょっと、何でもないって…気になるじゃん。」
タ「気にしなくて良いって。」
キタニの声は軽いが、その軽さの奥に小さな棘が隠れているようだった。
女は唇を尖らせながらも、それ以上強くは問い詰めなかった。
彼のこういう態度は、時々ある。
大事なことを言いかけては、最後の1線で濁す。
その理由は分からないまま、いつも宙ぶらりんにされる。
2人は商店街を抜け、少し静かな通りに差し掛かった。
店のシャッターが半分降りかけ、夕方の匂いが濃くなっていく。
その中で、女は何度かキタニを見たが彼はずっと前だけを見て歩いていた。
――本当に、何でもないのかな。
胸の奥にわずかな引っ掛かりを残したまま、女は歩調を合わせる。
時折、通り過ぎる自転車の風がスカートの裾を揺らし、そのたびにキタニの視線が一瞬だけこちらに流れる。
けれど、それを見たことを悟られないよう、すぐに逸らす。
タ「そういえば、この後予定ある?」
キタニが不意に話題を変える。
「ないけど…。」
タ「じゃあ、ちょっと寄り道してこうぜ。」
「どこに?」
タ「適当。歩いてれば見つかるだろ。」
キタニは笑いながら言ったが、その笑顔はさっきの“何でもない”のときと同じ、どこか底を見せない笑みだった。
女は返事をする前に、少しだけため息を吐いた。
問いの答えをもらえなかった苛立ちと、でも一緒にいる時間を手放したくない気持ちが静かにせめぎ合っている。
そんな複雑な心境を知ってか知らずか、キタニはポケットの中で片手を握りしめる。
――鈍いな、本当に。
その内心は口には出さず、ただ歩幅を少しだけ合わせた。
夕暮れの影が2人を長く伸ばし、やがてその先は夜の色に溶けていった。