第6章 抗えない視線
観客のざわめきが溶け、次第に会場全体が静寂に包まれていく。
歌が始まった。
彼らしい、淡々としているのに妙に刺さる歌い方。
だけど、そこに込められている想いは聞く者を強く惹き込む。
――恋を隠して過ごす苦しさ、すれ違うたび募ってしまう想い、けれどそれでも“君に届いてほしい”と願う気持ち。
その歌詞はまるで、彼が自分にしかわからない手紙を歌にして差し出してきているようで女は心臓を握り潰されるかのように熱くなった。
裏で聴いているのに、観客席にいるよりも近くに感じる。
彼の言葉が、自分だけに向けられていると錯覚してしまう。
ステージの上で、彼はいつもより少しだけ笑っていた。
声が震えないように必死で抑えているのがわかる。
それでも最後のフレーズを歌い終えた瞬間、彼の目がほんの一瞬だけ裏の控えスペースの方向を見た。
女の胸が跳ねる。
一瞬。
ほんの一瞬だった。
けれど、それは確かに自分を探すような視線だった。
会場は大歓声に包まれた。
観客たちは新曲に酔いしれ、拍手と叫び声でステージを埋め尽くす。
なとりは深く一礼し、照れ隠しのように
な「ありがとう。」
と小さく呟いた。
女はその場に立ち尽くしたまま、胸を押さえて息を整えることすらできなかった。
彼の歌が心の奥に響きすぎて、涙が出そうになっている。
それを必死で堪えながら、タオルで額の汗を拭くふりをして顔を隠した。
(……ずるいよ。)
心の中で呟く。
何万人もの観客に向けて歌っているように見せながら、まるで自分だけに気持ちを伝えてくる。
そのずるさが嬉しくもあり、苦しくもあった。
歓声の中で彼がステージを降りる準備を始める。
女はそのまま動けず、ただ鼓動が落ち着くのを待つことしかできなかった。
――このあと彼と顔を合わせたら、いったい自分はどんな顔をすれば良いのだろう。
その答えを見つけられないまま胸を焦がす余韻だけが、長く長く残り続けていた。