第26章 交わる現在、戻らない過去
吐き捨てるようなキタニの言葉に、歌い手は顔を歪める。
だが、抵抗は次第に無意味なものになっていった。
女はなとりの胸にしがみつきながら、荒い呼吸を整えようとした。
耳の奥で、まだドアが閉まる音や強引に掴まれた感触が蘇る。
怖さと安堵で、涙が次々にこぼれていった。
「……ありがとう。来てくれて……。」
震える声で呟くと、なとりは優しく髪を撫でた。
な「当たり前だろ。かやを放っておけるわけない。」
数分後、警察が駆けつけ歌い手は取り押さえられて控室から連れ出されていった。
廊下には騒然とした空気が広がりスタッフも集まってきていたが女はその視線に晒されることすら耐えられず、俯いてなとりにすがりついた。
タ「もう大丈夫。俺たちがいるから。」
キタニも側に寄り、強い声でそう告げる。
その言葉に、女の胸に少しずつ温かさが戻ってくる。
あの恐怖に飲まれそうになった瞬間、必ず駆けつけてくれる存在がいる――
それがどれほど心強いか、身に染みて感じていた。
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数日後、正式に事務所を通して契約書が交わされた。
『今後、歌い手とは一切関わらない』
それが条件だった。
プロジェクトごとに名義や出演を縛る条項は異例だったが今回の件が公になる前に、関係者全員が一致して“これ以上関わらせない”と判断したのだ。
署名を終えた女は、安堵と同時に深い疲労を覚えていた。
心のどこかでまだざわめきが残っている。
だが、もう2度と彼と向き合うことはない――
そう思うことで、ようやく夜も眠れるようになった。
そして、静かな日常が戻りつつあった。
仕事が終わり、マンションの部屋に戻る。
リビングの灯りをつけると、ソファにキタニとなとりが並んで座っていた。
テレビはつけっぱなしで、流れているニュースも耳に入らないほどの気安さがあった。
女はドアを閉め、靴を脱ぎながら小さく息を吐いた。
「……ただいま。」
な「おかえり。」
なとりが穏やかに返し、キタニは缶コーヒーを片手に軽く顎をしゃくった。