第26章 交わる現在、戻らない過去
タ「お前、正気で言ってる?」
「……だって、あの人といると胸が高鳴るし、優しいし……。」
必死に言葉を探す女を、なとりが遮るように首を振った。
な「それさ。最初は“大ファン”だったんだろ?」
「……そう、だけど。」
な「なら、そこから芽生えた感情なんて、結局は同じだよ。憧れと依存が混ざって、錯覚してるだけ。」
言い切られ、胸がざわついた。
錯覚。
そう言われると、確かに否定できない部分もある。
初めて彼を知ったときから心は音楽に惹かれ、やがてその人柄に魅せられていった。
けれど、それが“恋”なのかどうか――。
キタニが資料をテーブルに放り出し、苛立ったように前かがみになる。
タ「俺も、なとりもそうだけどさ。ファンって立場から入ったら、特別な感情に見えるのは当たり前だろ。舞台の上の姿に酔ってるだけなんだよ。」
「ちが……。」
タ「違わない。お前、今までもそうだったろ。酒飲んでふらついて、誰かに寄り掛かって、“ときめいたかも”って錯覚する。で、後から後悔する。」
突きつけられた言葉に、女は息を詰めた。
確かに、酒に流されてしまった夜は数えきれない。
大ファンの歌い手に触れられて胸が熱くなったのも、酔いが手伝ったことは否定できない。
なとりがため息混じりに言葉を継ぐ。
な「俺たち、お前のそばにずっといた。支えて、笑って、時にはぶつかって。それでも、酔った勢いとはいえお前が“好き”って言ってくれるたびに信じてきた。なのに、たまたま憧れてた相手が近くに来ただけで揺れるって……。」
言葉を切り、なとりは苦笑した。
な「……正直、きついよ。」
胸が痛む。
心臓の奥をぎゅっと握りつぶされるように。
ふたりの視線が痛いほど突き刺さる。
責められている、でも同時に――
心配されているのもわかる。
「……でも、気持ちは本当なんだよ。」
かすれた声で絞り出す。
キタニがすぐに反論する。
タ「本当かどうかなんて、今はどうでも良い。問題は、それが恋なのか錯覚なのかってことだ。」
「……錯覚。」
タ「そう。ファンが抱く“好き”と、恋愛の“好き”は違うんだよ。大ファンから入った時点で、感情は同じなんだ。だからそれを恋って呼ぶのは危うい。」
淡々とした口調なのに、言葉は鋭い。