第14章 簪【宇髄編 第1話】
夜の空気は澄んでいて、静かな庭に竹刀がぶつかり合う乾いた音だけが響いていた。
額から流れる汗を袖で拭い、知令は呼吸を整える。だが、すぐ目の前で構える宇髄は、まるで余裕を崩さない。
「……はぁ、はぁ……っ。やっぱり、強いですね……宇髄さん……」
知令が肩で息をしながら言うと、宇髄は口元に笑みを浮かべた。
「俺に挑もうって気概は大したもんだ。だが、お前はまだ自分を縛ってるな。」
軽く竹刀を払うと、その力だけで知令の手がわずかに痺れる。悔しさに眉を寄せながらも、知令は歯を食いしばって立ち上がった。
「……縛ってる、ですか。」
「そうだ。力を出すことに臆病になってる。あの時のことをまだ引きずってるんだろう?」
鋭い指摘に、彼女は返す言葉を失う。宇髄の紫紺の瞳は冗談めかすことなく、真っ直ぐに彼女を見据えていた。
「だけどな──」
宇髄は竹刀を下げ、少し距離を詰める。背の高さも気迫も圧倒的な彼に、知令は息を呑んだ。
「お前の努力は、ちゃんと俺が見てる。誰よりも、認めてやる。」
その言葉は、胸の奥にじんわりと熱を広げる。知令の瞳が潤み、思わず竹刀を強く握りしめた。
「……本当に……?私のことなんて、誰も気づいてないと思ってました。」
「馬鹿言え。お前みたいに必死で足掻いてる奴を、見過ごすほど俺は鈍くない。」
宇髄はふっと笑い、彼女の額に軽く指先を当てた。
「自分を責めるな。今のままでも十分、俺の目には眩しい。」
知令の頬が一気に紅潮し、竹刀を落としそうになる。心臓が暴れるように打ち、言葉が出てこない。
宇髄はその様子を見て、わざとらしく肩をすくめた。
「……なんだよ、そんな顔して。まさか惚れたか?」
「っ……そ、そんなこと……っ!」
慌てて言い返す知令を見て、宇髄は喉の奥で愉快そうに笑う。だがその笑みに、からかいだけではない温かさが滲んでいた。
稽古の場は、知らぬ間にただの鍛錬を超え、二人だけの秘密の時間へと変わっていった。