第9章 甘くて苦い
彼「……痴話げんかだよ。」
元彼の腕が強く、めいを自分の方へと引き寄せる。
不意に肩口にぶつかった彼の胸の匂い――
懐かしいはずのそれは、今や息苦しさにしかならなかった。
思わず身体を固くしてしまっためいを見て、悟の顔にかすかな影が差した。
彼は普段と同じ軽い調子で笑っていたが、サングラスの奥から覗く眼差しは氷のように冷たい。
悟「……ふぅん。痴話げんかねぇ。」
悟の声は低く、どこか底が知れない。
普段の調子外れな明るさがまるで仮面のように貼りついていて、その下からじわじわとした殺気めいた気配が滲み出す。
めいの手首を掴んだままの元彼が、苛立ちを隠すように悟を睨んだ。
彼「そうだ。お前には関係ない。」
悟「へぇ……。」
悟は1歩前に出る。
その瞬間、夜の空気が張り詰めた。
街灯に照らされた2人の男。
白髪の青年と、スーツ姿の元彼。
言葉を交わすだけで、火花が散るような緊張感がその場を支配していく。
悟「でもさぁ。」
悟は小さく肩を竦める。
悟「俺にはどう見ても、彼女嫌がってるようにしか見えないんだよね。」
その声は落ち着いていて、それでいて鋭い刃のように空気を裂いた。
元彼は一瞬だけ動揺したように眉を寄せたが、すぐに口元に薄い笑みを浮かべた。
彼「……強がってるだけだ。昔からそうなんだ。俺がわかってる。」
そう言ってめいの肩を抱き寄せる。
ぐっと力が強まり、逃げ場を塞がれる。
「や、やめて……!」
必死に言葉を絞り出すが、喉は震えて声が小さくなる。
その小さな抵抗さえ悟には、はっきりと伝わったようだった。