第11章 逃れられぬ腕の中で
女は呼吸を整えようと必死に深呼吸する。
だが胸は詰まり、吸い込んだ空気が喉にひっ掛かるばかりだ。
脅し文句が脳内でぐるぐると回り、頭を締め付ける。
――“他の男たちと関係がある”
歪んだ言葉が、自分の全てを否定してくる。
もし誰かに信じられてしまったら、自分は終わりだ。
仕事も、人間関係も何もかも……。
「いや……いや、やめて……。」
小さく声を上げるが、返事をする者などいない。
部屋の中にあるのは冷たい静寂と、紙に刻まれた狂気の言葉だけだった。
震える指先で便箋を握り潰すと、紙はくしゃりと音を立てた。
その音がやけに大きく、夜の闇に吸い込まれていく。
それでも胸の奥に溜まった恐怖は、何ひとつ消えてくれなかった。
──────────
翌朝。
窓から差し込む光はいつもと変わらぬ眩しさを放っているのに、女の心には昨日から続く重い影が張りついていた。
寝不足のせいでまぶたは重く、鏡に映った顔には薄く隈が浮かんでいる。
冷たい水で頬を叩いても、胸の奥のざわつきは少しも消えてくれなかった。
――あの手紙。
――“ばらすぞ”という脅し。
思い出すたび、胃がきゅうと縮こまる。
だが、仕事を休むわけにはいかない。
(大丈夫、大丈夫。)
と自分に言い聞かせながら、女は無理やり支度を整えて家を出た。
職場の空気は、いつもと変わらない。
電話の音、資料をめくる音、同僚たちの軽い談笑――。
けれど女の耳には全てが少し遠く、霞がかって聞こえた。
笑顔をつくり、挨拶を返し業務に取り掛かる。
だが集中はできず、書類の文字も目の前を流れていくばかりだ。
――気づかれないようにしないと。
そう思うのに指先は落ち着きをなくし、ボールペンを握る手は小さく震えていた。
そんな中、不意に視線を感じた。
顔を上げると、少し離れた場所から甚爾がこちらを見ていた。
彼は何気ない素振りで資料をめくりながらも、目だけはじっと女を追っている。
その黒々とした瞳の奥にあるのは、ただの同僚を見る眼差しではなかった。
心配と苛立ち――
そして嫉妬が混ざったような熱。