第8章 『 距離 』
思いを口にした夜から、審神者は、それ以上何も言わなかった。
まるで――あの言葉は、
胸の奥に仕舞うために吐き出しただけだとでも言うように。
翌朝。
「おはようございます!」
大広間に現れた主は、いつも通りの声で挨拶をした。
何も変わらない。
顔色も、声も、立ち居振る舞いも。
鶴丸の前を通っても、ほんの一瞬、視線を向けるだけで、それ以上は何もない。
「……っ」
鶴丸が声を掛けようとした時には、もう主は次の用事へ向かっていた。
(……聞かなかったことにした、のか)
そう思ってしまうほど、主は“審神者”として、前に進いていた。
政務。
鍛刀。
部隊編成。
政府からの報告への対応。
淡々と、確実に。
無駄な感情を挟まない。
――鶴丸への思いだけを、きれいに伏せたまま。
(……知らないんだな)
主は、鶴丸がその夜、一睡も出来なかったことを。
布団に横になり、目を閉じても。
まぶたの裏に浮かぶのは、あの時の声。
「好きかもしれません」
なのに返事はいらないと、口を塞がれた。
あの指の感触。
(……参ったな)
天井を見つめながら、鶴丸は小さく息を吐いた。
眠ろうとするほど、意識が冴える。
(聞くなと言われて、聞かずにいられるほど、俺は器用じゃない)
主は、もう前を向いている。
自分だけが、あの夜に置き去りだ。
「……ずるいな」
誰に向けた言葉でもない呟きが、闇に溶けた。
同じ本丸にいて。
同じ朝を迎えて。
それでも――
この時、ふたりは全く違う夜を生きていた。
主は、思いを胸に封じ、前へ。
鶴丸は、思いを抱えたまま、眠れぬ夜へ。
そんなすれ違いが起こったことなど、本丸の皆はまだ誰も知らない。
まだ気づかない。