第8章 『 距離 』
夜。
本丸の廊下は、灯りが落とされ静まり返っていた。
「……鶴丸さん」
名を呼ばれて、鶴丸は足を止めた。
振り返ると、主がいた。
少しだけ息が乱れていて、それでも逃げずにこちらを見ている。
「どうした、主」
いつもの調子で返そうとして、主が一歩、距離を詰めた。
「……あの」
一瞬、迷うように視線が揺れて。
それから、意を決したように、口を開く。
「私――」
指先が、ぎゅっと握られる。
「……鶴丸さんを、好きかもしれません」
時間が、止まった。
「……」
鶴丸が何か言おうとした、その瞬間。
主の手が、そっと、でもはっきりと、彼の口元に触れた。
「すみません、怖いので……返事は、いらないです」
声は震えているのに、目は逸らさなかった。
指先が、ゆっくりと離れる。
主は続けた。
「私……誰かに、あんなふうに優しくしてもらったこと、ほとんどなくて」
瞳に涙が溢れていくのがわかった。
「だから」
苦笑する。
「勘違い、してるだけかもしれません。優しくされたから、好きだなって思い込んでるだけかも」
「……」
「それでも」
ゆっくりと一歩、主は鶴丸から距離を取るように後ろへ下がる。
「この気持ちを、あなたに伝えたかった。ただ、それだけです」
深く、頭を下げる。
「おやすみなさい、鶴丸さん」
それだけ言って、主は踵を返した。
返事を聞くこともなく。
振り向くこともなく。
足音が、静かな廊下に溶けていく。
残された鶴丸は、しばらく、その場から動けなかった。
(……一方的だな)
そう思ったのに。
胸の奥が、
妙に熱い。
(返事は、いらない、か)
唇に残る、かすかな温度。
「……ったく、驚きで声が出なかったぜ」
ぽつりと、誰にも聞こえない声で呟く。
(そんな言い逃げ、ずるいだろ)
主の背中は、もう見えなくなっていた。