第7章 挑発
夜の街は、湿った空気とアルコールの匂いが入り混じっていた。
ビルの谷間から漏れるピンクや青のネオン、しつこいキャッチの声、何かを吐き捨てるような笑い声──
その全てが彼女の心にまとわりつく感情を、ほんの少しだけ麻痺させてくれていた。
制服の上に羽織ったカーディガンが、夜風に揺れる。
普段ならありえない時間、ありえない場所。
けれど、今は何もかもから逃げたかった。
誰にも会いたくなかった。
──誰にも、触れられたくなかったはずなのに。
甚「みみ。……こんなとこで迷子か?」
その声は、聞き間違えようがなかった。
彼女の足が止まり胸の奥が一瞬、きゅっと掴まれるように痛んだ。
振り返らなくても、わかる。
「……甚爾……?」
声に出すと、鼓膜に返ってきた自分の震えがわかった。
甚「ああ。俺だよ。こんな所で何してんだ?」
ネオンに照らされた男は、相変わらず不良のような風体だった。
髪を無造作に撫で、口元にはいつもの気だるげな笑み。
けれどその目だけは、鋭く彼女を見ていた。
「……なんでもない。散歩……っていうか、ちょっと……息抜き。」
甚「ふうん……高専ってのは、みみにそんな顔させる場所なのか。」
「……っ。」
図星を突かれて、言葉に詰まる。
甚爾は彼女のそんな反応を見ても無理に追及するでもなく、ただ横に立った。
甚「じゃあ、付き合ってやろうか。飯、食ったか?」
「え……。」
甚「飯。食ってねぇなら、俺の奢りで何かうまいもんでも食おうぜ。夜の街ってのは空腹で歩くには、ちと毒が強すぎる。」
冗談めかしたその声に、どこか安心してしまう自分がいた。
あのとき、ほんの一時だけ身体を預けた相手。
理性では抗っても、どこかで“拒めない”と感じていた──
伏黒甚爾。
「……わかった。……でも、変なとこ連れて行かないでね。」
甚「おっと、信用ねぇな。俺は健全だぜ、"今は"な。」
彼女が小さく笑うと、甚爾も肩を揺らした。