第9章 どうでも良い
夕暮れの色が落ちきらず、街灯の灯りがぼんやりと滲み始めた時間。
ミクは足取りをやや早めながら、ひと気の少ない住宅街の角を曲がった。
──そして、息を呑んだ。
アパートの前、見慣れた無骨なシルエットが、こちらを向いて立っていた。
背を壁にもたれかけるように、片手に煙草。
白く煙を吐きながら、けれどその視線は鋭く地面を這うような静かな怒気を含んでいる。
伏黒甚爾だった。
甚「……帰ってきたんだな。」
低く、喉の奥で転がすような声。
いつもの気怠げな調子ではない。
感情を押し殺したようなその声が、かえってミクの背筋を冷たく撫でた。
「……仕事で、遅くなって……。」
声がかすれる。
明らかに嘘ではない。
でも、真実のすべてではない。
それを誰よりも知っているのが目の前の男だということを、ミクの身体は本能的に察していた。
甚爾は煙草を指で摘んだまま足元で踏み消し、静かに歩み寄ってくる。
その距離は、じわじわと迫るのではなく、一気に詰められた。
甚「……誰と一緒だった?」
問いは単純だった。
でもその声に含まれる温度は皮膚を刺すほど冷たいのに、なぜか身体の奥がざわめく。
「……なんで、そんなの……。」
甚「答えろ。」
鋭く低い声が、鼓膜を揺らす。
真正面からの問いかけではなく真横に立ったまま、吐息が頬に掛かるほど近くで。
睨むでもなく、見下ろすでもなく──
それでも逃げられない場所に追い詰められていることを、ミクは息苦しいほどに感じていた。
沈黙。
その重みに、言葉が出せない。
甚「帰ってこねぇから、てっきり……他の奴のとこ行ったのかと思ったぜ。」
吐き捨てるような声。
けれどそこに滲むのは、怒りだけではなかった。
独占欲、苛立ち、嫉妬──
それらが静かに、しかし確かに積もっている。
次の瞬間、腕を掴まれた。
甚「……部屋、入るぞ。」
その手は強引だけれど、壊すような力ではない。
けれど、拒めば逆に砕かれる予感があった。
玄関の鍵を開けた指が、震えていた。