第8章 たまには
彼の返事はすぐには来なかった。
ミクはスマホを裏返しにして、溜息と共にディスプレイを遠ざける。
そのまま、夜の会議に向けてノートPCを開いた。
──そして、時計が20:00を回るころ。
オフィスの明かりはまばらで、人の気配もまるで潮が引いたように少なくなっていた。
悟「……大丈夫? 疲れてない?」
優しい声が隣からかけられた。
振り向けば、白シャツの袖を無造作にまくり上げた悟が、コーヒーのカップを差し出していた。
「ありがとうございます。……悟先輩こそ、付き合ってくれてるのにごめんなさい。」
悟「良いって。僕が残りたかったんだから。」
そう言って微笑む彼の目は、笑っていない。
優しげな口元とは裏腹に、その視線はミクの奥を見透かすように深かった。
悟「最近さ、元気ないよね。何かあった?」
「……何も、ないです。」
悟「ふうん。」
それ以上は何も言わず、悟は椅子に腰掛けた。
長い脚を組み甘いカフェオレを口にしながら、ミクの様子をちら、と盗み見る。
その沈黙の圧に気づきながらも、ミクは画面に集中するふりをした。
でも、指は進まない。
視界の隅で、悟の体温と存在が静かに圧を持って迫ってきていた。
悟「さっきさ、スマホ何回も見てたよね。」
「……っ。」
悟「彼氏?」
「ち、違います。……そういうんじゃないです。」
悟は、目を細めた。
静かに、しかし明らかに何かを読み取ったような目で、ミクをじっと見つめた。
悟「じゃあ、アイツと寝ただけ? ……何度も?」
その言葉に、思わず手が止まる。
顔を上げると、悟は淡々としたまま視線を逸らさずにいた。
「そんなこと……関係ないですよね。」
悟「……うん。でも、気になる。」
低い声で、悟は告げた。
その声音には、感情が押し殺されている。
けれど確かに、怒りと嫉妬が滲んでいた。
(……どうして。なんでこんなふうに言われなきゃいけないの。)
思わず立ち上がろうとしたその腕を、悟の指がそっと掴んだ。
悟「……今日は、もう少し僕に付き合ってよ。」
ミクは、その言葉に息を飲んだ。
──静かな残業の空気が、どこかで熱を帯び始める。
パソコンのファンの音が、やけに響いていた。